にしなすのダウンタウン物語

 

明治の元勲と永田町の由来

はじめに

 現在、TMO構想の具体化を目ざしている西那須野中心市街地活性化基本計画地区(70ha)というと堅苦しいが、もともとは鉄道の西那須野駅を中心に発展した「繁華街」である。  日本古来の「まちなか」繁華街は、城下町、宿場町の商家街が発展したものであり、「下町」の通称がふさわしい。しかし北アメリカ、オーストラリアなどの新大陸では、原野に大陸横断鉄道が敷設され、鉄道の駅が造られると、何もないところに物資の集散地としての機能が集積し、人が集まりにぎわうようになった。19世紀以降の人工の「繁華街」である。これは「ダウンタウン」呼ばれる。  西那須野地区の繁華街というと、生い立ちから言って、後者の「ダウンタウン」そのものである。今後は「西那須野中心市街地活性化基本計画地区」の公式名称と共に、通称として「にしなすのダウンタウン」と呼ぶことにする。

中心市街地活性化基本計画区域と明治10年代の華族農場位置

生い立ち(明治の元勲がつくったダウンタウン)

 源頼朝の大規模な巻狩りが行われた広大なススキの原野であった那須野が原も、明治新政府の地租改正で官有地となった(明治11年)。その後、当時の華族、地元有力者などが土地を借用し(明治13年)、開拓を進めて払い下げを受け、大農場が出現した。  この開拓間もない原野に開通したのが日本鉄道(現東北本線)である(明治19年)。那須野が原の西部には現在の西那須野駅が設置された。古くからの城下町大田原の住民が蒸気機関車の火の粉を嫌って、反対したという俗説もあるが、西郷農場、大山農場の間に駅ができた。当時の外国の知識に精通し鉄道の威力を知っていた両華族が文字通り「我田引水」した結果らしい。三島農場が自分の土地の中に誘致しようと画策したが、西郷ー大山連合軍に負けたという話もある。二人は駅前の一角を自分達が東京で住む地名と同じ永田町と名付けた。(ちなみに農場は彼ら二人の故郷鹿児島の地名を借りて加治屋農場と名付けている。)  従って「にしなすのダウンタウン」は西郷従道(西郷隆盛の実弟)とそのいとこ大山巌の両元勲がその道筋をつけたといえよう。
余談になるが、この二人に三島家を加えた奇しき因縁が、明治のベストセラー小説、徳富蘆花の「不如帰(ほととぎす)」として描かれている。ご覧あれたい。

晩年の西郷従道 壮年の大山巌
 

市街地の形成

 西那須野駅ができた当初、鉄道で着いた荷物は一旦大田原まで送られて仕分けされていたという。まだ駅前にはそれだけの設備がなく単なる荷物置き場であった。その後明治41年に大田原向けに人車が開通し、明治45年に塩原温泉行きの軽便鉄道が西口に、更に大正7年には黒羽方面を結ぶ東野鉄道が東口に設置された。これらと並行し、西口には旅館、食堂等オープンし、まちには賑わいが出現した。大正13年当時の絵地図をみると、現在の中心市街地活性化地域の大部分に、商家、民家が連なっている。

大正13年のダウンタウン鳥瞰図(クリックすると拡大します)

元勲のその後

 病に倒れた西郷従道は、晩年、西那須野駅近くの自分の地所(現在の永田公会堂)に別邸を建て、約半年逗留して養生したが、回復せず帰京後2ヶ月ほどで亡くなった(明治37年)。従って彼が最晩年、闘病生活を送ったのがこのダウンタウンである。

西郷別邸(現永田公会堂の場所) (参考:西郷邸比較PDFファイル)

 狩猟に農事にと下永田の別邸を愛した大山巌は、死後(大正7年)国葬の後、この西那須野の農場内に葬られた。

 
大山別邸記事(クリックすると拡大)

 時代は移り、西那須野駅周辺は、塩原温泉への玄関口、黒羽方面の煙草、米などの荷扱い地として栄えた。一時は「県北の上海」の異名をとるほど繁栄したと言われる。  映画館が最盛期3館あった。花市、びっくり市などの市場も定期的に開催され、周辺の地域からたくさんの人出を呼んだのがこのダウンタウンである。

 

「オサムの朝」に描かれた西那須野ダウンタウン

 地元出身の作家 森詠さんの映画化された小説「オサムの朝(あした)」(第10回坪田穣治文学賞受賞作品)は、出だしは大田原での生活であるが、後の2/3は、西那須野を舞台にした戦後間もなくの子どもの生活を題材にとったモデル小説である。

 にしなすのダウンタウンに関する記述を引用してみる。
 「O町は栃木県北、那須高原のはずれに位置するひなびた旧城下町だった。O藩は会津藩や東北列藩と歩調を合せて、薩長の官軍に非協力的であったため、明治政府はその報復として、国有鉄道を敷く際に、旧街道筋のO町から4、5km西にはずれた隣りのN町を通したのだ。そのためO町は過疎の町になり、一方の東北線の駅を持つN町は、塩原温泉の玄関町ということもあって飛躍的に発展していった。」

 「元気と修はランドセルカタカタいわせながら、帰り路を急いだ。武内医院は町の中心の駅前通りから一本西に入った通りにある。(注:東小から旧南郷屋までの)修の帰り道にあたっていた。」

昭和30年代の駅前通り

 「平和館はN町とM村の境にある古い演劇場だった。修は映画に行くと決まって映写室を覗きにいった。映写室には巨大な映写機が二台並んでいて、機械油や、フィルムの匂いが充満していた。(中略)平和館はかつて田舎芝居だけでなく歌舞伎などもかかったことのある劇場だった。建物はかなり老朽化しているものの、昔風の頑丈な造りで、二階席はまだその名残りで桟敷になっていた。」

在りし日の平和館劇場
 

今後のダウンタウン

 昭和50年代に入り、大型の商業施設が進出すると共に、ダウンタウンの商業機能はその役割を少しづつ譲らざるをえなかった。しかし鉄道の玄関口とともに生活の便利さは今も健在である。TMO構想で、その便利さを拡充し整備するよう努力が続いている。