不如帰

明治31年(1998)11月から、同32年5月まで、徳富蘆花が『国民新聞』に連載した処女作『不如帰』は大きな反響を世間に引き起こした。
 その反響ぶりは実にすさまじく一世を風靡するもので、蘆花という作家のデビューとして、ふさわしいものであった。
 かれは、連日、新聞に掲載される『不如帰』の書評を読んで「嬉しいような、笑つては変なような、知らぬ振りはなおできないことでもあり」といってその喜びを素直に語っている。
しかし、かれがこの栄冠を獲得するまでには、長い苦しい下積みの生活があった。蘆花が民友社にはいったのは、明治22年の初夏のころであり、それから数えて約十年、かれは兄の下でこつこつ雑文を書き、『国民新聞』に載せる翻訳物の仕事を続けていた。
 この十年間に、蘆花がした仕事は百を越す雑文と8冊にものぼる著作であった。しかし、これらの雑文は、ほとんどが民友社のサラリーマン仕事で、8冊の著作も『ジョンブライト伝』 『リチヤードコプデン』 『グラツドストン伝』 『歴史の片影』 『名婦の鑑』 『トルストイ』 『青山白雲』 『外交奇譚』といったもので、『青山白雲』を除けば、作家としての蘆花の仕事ではなかった。
 明治31年の3月、蘆花は、『国民新聞』に発表した、「此頃の富士の曙」の好評に勇気を得て、十年間の原稿を整理し、『青山白雲』を刊行した。
 この作品集は、蘆花の才能を、かれ自身が世に問うたもので、かれの期待の書であった。ところが、この作品集は、かれの期待を裏切って、なんの反響ももたらさなかった。そればかりでなく、かれがせっかく「此頃の富士の曙」で築いた自信さえあやしいものにし、作家としての才能をも疑わせる結果をまねいた。
 この年四月、かれが蕪村句集をふところに、ひとり旅に出たのはそのためであった。こうした日々は蘆花にとって苦しい日々であった。
そうしたある日、蘆花は偶然、大山巌大将の副官、福家中佐の未亡人安子から次のような話を聞かされた。

ある未亡人の話
 福家中佐の未亡人安子の話は、大山巌大将の長女信子に関する悲しい話であった。蘆花ははこれを逗子の柳屋で妻の愛子といっしょに聞いた。
 彼女の話は、はじめ大山巌大将の副官であった良人の話にはじまった。役女によると、福家中佐は大山大将の信任があつく、そのため一家は、永田町の官邸や青山の私邸に、ほとんど大山一家同居するような形で生活していた。そこで彼女は大山家の内情に詳しく、特に美しい長女信子については強い関心を持っていた。
信子は、彼女の話すところによると、色が白く、全体に大柄な感じの芙しい女性であった。信子は十七歳の時、海軍大臣西郷従道夫妻の媒酌でアメリカ帰りの子爵、三島弥太郎と結婚した。
三島弥太郎は、当時警視総監として有名であった三島通庸の長男で、前途有望な二十七歳の青年であった。
 ふたりは愛し合い、幸福な新婚家庭を持った。ところが新婚生活二カ月目が過ぎるころから、信子が、肺結核に感染してしまい急に咳込むようになった。そして悲劇はここからほじまったという。
 三島弥太郎の母、わか子はこの信子の様子を見て、急につらくあたるようになり、むすこのいないところで彼女をいじめるようになった。
 わか子は、信子に離縁を迫り、ことあるごとに病床に伏す嫁にいやみをいった。しかし、信子は愛する夫と生活を続けるために、歯をくいしばってこの苦難に耐えていた。
彼女は、夫の弥太郎といっしょに生活できるのなら、どんな苦しい境遇にも耐えてゆこうと決心していたのである。
 ところが、この紋女の決心にもかかわらず、彼女は結婚七カ月目になんの前ぶれもなしに、一方的に離婚させられてしまった。もちろん、夫の弥太郎も知らなかった。すべては、母のわか子によって、事が運ばれていたのである。愛するふたりは、生木をさくようにして離別させられた。信子は、実家の大山家に引き取られ、それから三年後の明治29年(1896)の五月に息をひきとった。
 彼女はその時、「あゝ、辛い! 辛い! 最早(もう)一最早(もう)婦人(おんな)なんぞに一生まれはしませんよ。」
と叫んだという。未亡人安子は大山大将の娘、信子の短い生涯をこのように語った。
 蘆花はこの話を聞いてさっそく小説を書こうと思った。
小説とモデル小説は多かれ少なかれ、作者の体験の中に描きだされるもので、登場人物や、展開される事件にはモデルを持っているものが少なくない。
蘆花の小説『不如帰』も、またその例外でなく、その主要人物はほとんど実在の人物であった。たとえば主人公の浪子は大山信子であり、川島武男は三島弥太郎、川島未亡人は三島わか子、片岡陸軍中将は大山巌大将、片岡夫人繁子は大山捨松夫人といったぐあいである。そして事件の展開も福家未亡人の哀話を忠実に再現したものであった。
ところが事実は、この小説『不如帰』と少し違ったものであったらしい。「蘆花全集」(新潮社版)の編集主任、沖野岩三郎氏によれば次のようである。すなわち、浪子のモデルであった大山信子の離婚は、小説とは別で、離婚話は大山家から三島家へ持ち込まれ、しかも三島家は最初、これを拒んだというのである。しかし、大山家は、信子の病が三島家に災いをもたらすことを心配して強く離婚を主張し、明治26年七月、信子を実家に引き取った。これが沖野氏の調査の結果である。
 事実は小説『不如帰』のように、川島未亡人が浪子を追い出したのではなかった。
 ほかにこの沖野氏の調査を裏づけるものとして、川島未亡人のモデル三島わか子を弁護する記事が『婦女界』記者の名で「落穂」に次のように紹介されている。
 「浪子の姑となる三島氏母堂わか子刀自は、鹿児島県士族柴山権介氏の女です。
 生来、曲つたこと不正なことに対しては寸毫も容赦しない代わりに、正しい事に対しては心底を投出して同情もし、助けもすると云う正邪の区別をはつきりと立てる人で、その上、良人通庸氏の感化もありましようが、女には珍らしい峻烈な気性の人で周囲のものが、万一不都合なことでもすれば、声を励まして、これを懲らしめるという風ですから、母堂をよく知らない人は『まあ!恐ろしい怖わい人だ!』と、こう思ってしまうのです。
 もう一つ、母堂には損なことがあります。それは鹿児島言葉です。
 鹿児島言葉を知らぬ他郷の人から見ると、母堂の言葉のきゝようが怖ろしいから、一度で怖れを抱いてしまいます。
 つまり元来が誤られ易い言い方なので鹿児島の人がきけば何でもないことが、他郷のものにはひどく怖ろしく聞えるのです
 こうした母堂と信子嬢のお付きであった東京者のお新が一ヶ月余り見せつけられたのですから、お新にとつて或は母堂の人となりが、誤り伝えられたかも知れません。」
 そして、三島わか子は『不如帰』の舞台を見て、「おいどんは、あんなでもごわせんよ。」
と泣いたという。
 こうしてみると、どうやら蘆花は、沖野氏の調査したような事実はどうも知らなかったらしい.かれは福家未亡人の話に感動し、それをそのまま小説化したらしいのである。
蘆花にとって、最も重要であったのは信子の「もう−もう、婦人(おんな)なんぞに生まれはしませんよ」という叫びであったろう。
 蘆花はこの一片のことばから、この小説を書いたといえる。
 この『不如帰』の例からも理解できるように、小説のモデルはつまるところモデルでしかありえない。われわれは、小説の世界と実際の世界を混同しないように注章する必要があろう。

不如帰の世界
『不如帰』は蘆花夫婦が明治三十一年の夏、伊豆の逗子において大山元帥の副官をしていた福家中佐の未亡人安子から聞いた哀話をもとにして書かれた小説である。「見ぬものは写せず、知らぬ事はいえず、感ぜぬ事は書けぬ」という小説家の蘆花にとって、この話は格好の材料であった。
かれは、この話に感動して「これは、小説だ」と叫び、りっぱな小説を書くことを決心した。そのことを妻の愛子に話すと、彼女も喜んで賛成した。ふたりはいろいろ相談した結果、ヒロインの信子には、ふたりが自分たちの子どもの名に用意していた「浪子」という名をつけることにした。そして小説の冒頭には、先に、ふたりが結結婚記念に遊んだ伊香保の風景を持ってくることにした。
 こうして『不如帰』はこの年の11月29日の『国民新聞』から連載されることになった.連載されると『不如帰』の評判はよく、それは日がたつにつれてしだいに大きなものになっていった。
 蘆花は自伝小説『富士』の第17章、「不如帰」の中で、「二月に入ると、ぽつぽつ小説の反響があつた。気むづかしやで、何でも難癖つけたがる日本新聞が、ニ号に渉つて懇篤な紹介をしてくれたは、よくよくの子細がなくては叶はなかつた。」と語り、
 「小悲劇に大舞台を持ち込んだ海戦描写をほめ、ほととぎすよ、盛んに鳴いてくれ、また、こんなのでも
よい、違つたのでもよい、と著者の前途を祝した。」
と書いている。
 さらに『大阪朝日』は、「同情が普遍なのが成功の要素」と解説し、『東京日々新聞』は、『不如帰』の文体をとらえて、
 「文章でなくて音楽である.
 その節奉に触るる者、さん然として泣き、粛然として自己を忘れる。
 殊に叙景の高雅は他に比を見ない。」
と紹介した。
 『不如帰』はこうした大新聞の好意的な書評をバックに大きな拍手で世に迎えられた.浪子と武男は、人人の日常会活の中に、いつのまにか持ち出されるようになり、特に若い男女のあいだでは、一種の流行語にさえなった。
 『基督教世界』は『不如帰』における蘆花を、「愛を書いて愚に到らず」と激賞し、一方では、青年雑誌の『文庫』が海戦場面を、「快の一也、快の二也」と快を五つまで書き連ねてこの作品をたたえた。
 こうした『不如帰』の成功は、明治文壇においても破天荒な部類に属するもので、ほとんど同時に書かれた尾崎紅葉の『金色夜叉』と肩を並べるものであった・
 この二つの作品はいろいろな点でいくつかの共通点を持っている。その一つに読者の幅広い共感があり、 主題に若い男女の悲恋を持ってきていることである.両作品とも多分に通俗的な要素を事件の展開にからませ、しかもその中に、かく生きなければならなかった明治の女の悲しい運命をとらえていることである。
 『不如帰』についていえば、浪子の離婚を強制した「家」
は、当時の封建道徳の根源ともいえるものであった。浪子はこの「家」のために、川島家を追われ、愛する夫を奪われ、死に追い込まれたのである。
彼女が死によって、また「最早(もう)婦人(おんな)なんぞに−生まれはしませんよ」と叫んだのは、こうした封建的な「家」からの解放を願ってのことであった。
 そして、この悲しい運命は、多かれ少なかれ、明治の女性に共通する宿命である。
 蘆花の作品『不如帰』が大評判となり流行の波に乗って劇化され、映画化され、黒田清輝の絵となり、詩となっていった背景には、こうした明治の女性の大きな共鳴があったのである。

-(「徳富蘆花」 福田清人・岡本正臣 (清水書院 昭和42年から)−

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